2013年10月22日火曜日

蹴ろくろは運命の出会い




 私はケヤキで出来た蹴轆轤を使っています。蹴轆轤と書いて、「けろくろ」と読み、文字通り蹴って回すろくろです。
 
 なぜ私が蹴轆轤を使っているのか。それは電気を使わなくていいとか、いいものが作れそうな気がするとか、他にも色々な理由がありますが、結局のところ楽しいからなのだと思います。トンと蹴ると回る。その単純な仕組みが楽しくてたまらないのです。ご飯を炊くのは炊飯器ではなく圧力鍋、パンを焼くのはホームベーカリーではなくオーブン。そういうことが楽しい私にはピッタリの道具だったのです。  

 蹴轆轤は道具としても、とても美しいものですし、ターンと蹴る音、するすると回る音、ちょっと調子が悪いときに鳴るカタンカタンという音、そのどれもがうっとりするような優雅な音です。まだ電動ろくろがない時代の陶工達は、この音を聞きながら作っていたのだろうなあと想像するのも楽しいことです。
 
 そしてなによりも、やわらかな木肌の丸い轆轤を抱え込むように座るとき、私は幸せを感じます。木は優しく、あたたかいのです。スッと手を置くと、まるで血が通い合うようで、いざ回し始めると、それはもう体の一部となるのです。



 ただ、やり始める前は賭けでした。電動ろくろより難しいことは明らかですし、スタートの遅い私がそんなものを選んでだいじょうぶだろうか、そんな不安はありました。まだ蹴轆轤を使っている焼き物の産地では、習得の難しさに挫折する人が多いとも聞きます。でもやってみなければわからないですし、モーターの音を聞きながら金属製の板の上で作るより、ずっと楽しそうだという思いの方が強かったのです。

 実際に作り始めてみると確かに難しくて、いまだに四苦八苦です。それでも全然嫌にならず、むしろどんどん楽しくなってくるのですから、やはりこの出会いは必然だったという気がします。

 蹴轆轤で挽いた器の魅力は、息遣いが感じられることだと思いますが、私の器はまだ息切れや溜め息が聞こえてきそうです。それがいつか穏やかな寝息のような、あるいは優雅な舞いのような息遣いとなることを目指して、時間をかけて精進していきたいと思っています。  

2 件のコメント:

  1. 気持ち分かるよ♪ 私も今家で作業してるのだけど、今まで慣れ親しんだバンドソーとかドリルプレスとかベルトサンダーとか、(なんかアニメの怪獣みたいな名前ね)電気で動く工具が無い状態です。
    そうすると、感覚が前より研ぎ澄まされてくるのです。作業もゆっくりになるから、作品を見る時間が長くなる。そうすると、その時間に「ああしよう、こうしよう」なんてアイデアが浮かんでくる。
    確かに、この方が楽しい。でも、仕上がりはまだまだ機械の方が綺麗だったりするけどね。

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    1. 作る物は違っても同じ感覚ですね。私も電動工具がなければ私のアトリエは建たなかったので、電動のありがたさもわかっているのです。綺麗に早く確実にを望むなら、便利な道具が一番。でも作る過程の醍醐味を存分に味わいながら、結果的に作品の魅力を深めていけるという点で、昔ながらの道具は素晴らしいと思います。

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